おんなのこがわらう時 / water water camel

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water water camel の3枚目のアルバム「さよならキャメルハウス」がリリースされたのは、確か2009年の冬だったか。だから今回のアルバム「おんなのこがわらう時」は 約3年ぶりのリリースという事になる。

なかなか、大変な(やっかいな?)アルバムを作ってくれたものだ。いや、しかしとても多くの事を考えさせられるアルバムだ。

まず、始めにさらっと流して全体を聴いた印象としては、こじんまりとした曲が多いなという印象を受けた。過去のアルバムに収められていた、「最後の飛行船(1st AIR SHIP)」「花がよくにあう(2nd 花がよくにあう)」「運命のアラサー(3rd さよならキャメルハウス)」といった曲達の様な1度聴いただけで多くの人の心を掴む、強烈なフックの効いた曲はこの新しいアルバムには見受けられない。少し肩すかしを食った様な感じだ。しかし、何度か繰り返し聴くうちに、これまでのアルバムとは少し違う、僕の心を捉えて離さない薄い膜の様な何かの存在が気になりだした。その何かの存在をここで少し確かめる事が出来ればと思っている。

water water camel のメンバー3人は、2008年の終わりに2002年から6年に渡って続けた東京郊外の一軒家での共同生活を解消し、2009年に前作「さよならキャメルハウス」をリリースしている。今になって聴けばあのアルバムもなかなか凄いアルバムだったのだ。東京の丸の内に大地震にやってくるという、「運命のアラサー」で幕を開ける。音楽は未来を予見するとしばしば言われるけれど、2年後の2011年になって本当にとてつもない地震が日本を襲ったのだ。そして、ゲンパツは吹っ飛びグラウンドゼロが生まれた。僕はあの日以降、ゲンパツを端に浮かび上がった様々な矛盾や問題を離れて、生活をおくれなくなってしまった。それはもう、立ち尽くしてしまっていると言ってもいい。そして、やはり音楽を聴くという何でもない事においてもそうなってしまったのだ。しかし、それでも僕は、やっぱり音楽にこそ未来への希望を持ちたいと思っている。

そうして、彼等から届いた新しいアルバム「おんなのこがわらう時」である。今回はこのアルバムの"サウンド"に焦点を絞って探ってみたい。冒頭にも書いたが、今回のアルバムを通して聴いた時に感じた、こじんまりとした曲が多いという印象、それはこのアルバムを通してのサウンドプロダクションから来ているのではないかと思う。各曲で曲調は色々とあるのだけれど、サウンドは一貫していて、アルバム全体として一つの確かな質感を残している。恐らくこれは前作からの流れでもあるのだろうが、ハイファイでバランスがよく耳に馴染みやすい音、細部まで聴き取る事が出来る、という従来のCDとしてのパッケージで求められてきた音への追求は捨てられている。どの曲をとって聴いてみてもローファイで、ザラザラした音、そして細部を聴くためよりも歌、ギター、ベース、ドラム、彼等の演奏した空気迄も取り込んでしまった様な、全てが一つの固まりとなった音が聴こえて来る。大きな物語に触れる為の様な、アルバムを通しての流れに気を配った音だと分かる。これまでのアルバムがカラフルな色に彩られた詩編だったとするならば、今回のアルバムはモノトーンの静かで雄大な一つの物語だと言えるかもしれない。

もし、上の僕の思い込みの様な感覚が正しければ、これはなかなか挑戦的なアルバムなのかもしれない。何しろ今はiTunes が全盛で、曲はお好みの曲を1曲ずつ買えて、iPhone で他のアーティストの音源とシャッフルして聴いたりする時代なのだ。レコードを買ってアルバムを通して楽しむ時代は遥か彼方、幻としてすら存在していないのかもしれない。そんな時代に彼等はこの音楽達をアルバムとして聴いてはくれないかと、この物語を読み解いてはくれないかと投げかけている。

僕は今、彼等のこの新しいアルバムを聴きながら、数百年前のアメリカ大陸を思い浮かべている。未知なる大陸へと新たな希望を求め、ヨーロッパを離れた人々が築いた国。そして、南北に分かれて自由を求め戦いを繰り広げた国。そんな果てしない逃避行を応援する様に勇気づける様に市民の中で歌われ続けた「アメージング・グレイス」や「バーバラ・アレン」がwater water camel の歌と重なる様な気がするのだ。僕達はこれから、負ける事があらかじめ決められた物語の中を生きていかなければならなくなってしまった。果てしない逃避行になろうと、ここが終の住処と覚悟を決めようと、微かな希望の火を灯す様に歌を歌う事は出来る。そして、傍らにはそっとこのアルバムを置いておくのだ。

夜話

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(裏面を見る)

ある作家の紹介で、船川翔司という作家(?)と出会いました。彼はその時、約1年半をかけ中国、ベトナム、カンボジア、タイ、ラオス、チベット、ネパール、インド、UAE、エジプト、ヨルダン、イスラエル、シリア、レバノン、トルコ、ブルガリア、ルーマニア、イタリア、イギリス、世界19カ国を巡った旅から、日本に戻ったばかりでした。

旅で集めた珍品・奇品、お宝を披露する様に、マックブックを取り出し莫大な量の写真と映像を実に丁寧な解説付きで見せてくれました。チベットのある集落で行われているという鳥葬の映像は衝撃的でした。そこでは生と死が、鳥、山、土、石、人々の営みを取り囲む自然が螺旋の様に、どこ迄も続き絡み合って混然一体となりとてもとても美しい映像だったのです。亡くなった人の躯を山肌に晒し、そこに集まる翼を広げれば人の大きさも超えそうな、大きな鳥の群れ。臓器も骨も人の肉体は全て無くなるまで食べられ、そして空へと消えて行きます。言葉にして、書き連ねるとグロテスクな物を想像してしまいますが、その儀式を執り行う司祭(?というには見た目はごく普通過ぎるおじさん)の微笑ましい表情と、儀式を取り囲む美しい空の青色が溶け合い実に牧歌的な風景となっていたのです。他にも、旅で遭遇したという、まさに市民革命の大規模デモ真っ直中のエジプトの喧噪、中東の砲弾で星屑を散りばめられた家々の壁。それらの映像と写真は、とても不思議(熱を帯びている様で、同時にとても冷静でもある)なバランスでもって切り取られていて、若者の世界放浪の記録的なモノでなければ、ジャーナリズム的なモノでもない、何というか、とある無名の画家が熱心に毎日スケッチを行っている様な、そんな印象を受けました。

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(c)syoji funakawa

そして、それらの写真や映像、そこにまつわる話等を僕一人で独占してしまうのは、少し勿体ない様な気がして、どうせなら、聞き手を何人か招いて小さな座談会の様な場を何回かに分けて開いてみたら面白いのじゃないだろうかと思ったのです。1回目は文化人類学者の久保明教氏を、2回目は古書店MILBOOKSの福井一朗氏を招いて会を開きました。今回で既に3回目なのですが、今回は鈴木創士さんという方を聞き手に招きます。ここで、僕なんかが紹介を入れなくても知っている人はよくよく知っていると思うのですが、少しばかり鈴木氏の紹介を。

船川君とこの夜話について色々企画を練っている段階で、色んな人を聞き手に招いてやってみたいよねという話になり、彼に誰か面白い人を知らないかと聞いて出てきたのが、鈴木創士氏だったのです。鈴木氏は船川君がかつて通っていた大学で客員をしていたらしく、そこで知り合い影響を受け親しくしているとの事でした。話によれば、生前の中島らもととても親しかったとか(中島らも烈伝 という著書もだしている)、フランス文学に明るくいくつもの翻訳や評論も行っていて、とても面白い人物らしく3回目は鈴木氏でどうかという事になりました。ここから少し時間を遡りますが、学生時代とある講座の課題の為にアントナン・アルトーという作家の事を調べなければならなくなり、この作家がまた非常に難解な人物で、学生時代の僕は彼の書いている事が全く理解できず、そして当時から敬愛していたスーザン・ソンタグの評論なんかも読んでみたのですが、さっぱり分からず課題を提出出来ず、あげく単位を落としてしまったという苦い思い出があるのです。それから数年して本屋であのアントナン・アルトーの名前を見つけその本を手に取っていました。それはアントナン・アルトーの著作でも伝記でも評論でもなく、アルトーの晩年を小説という形で描いた少し変わった本でした。かつて僕が投げ出した難解、奇人、理解不能なアルトーだけではなく、壮絶に生きた愛すべき芸術家の姿がとてもリアルに蘇った様に感じたのです。その本「ひとりっきりの戦争機械 文学芸術全方位論集」は調べてみると、鈴木創士氏の著書だったのです。と、学生時代の一つのとても些細な挫折は、こんな所に繋がっていたのですね。面白いモノです。

その後、「ひとりっきりの戦争機械 文学芸術全方位論集 」という評論集を読んだりして、先月初顔合わせの打ち合わせに京都に向かいました。待ち合わせに指定されたクラシックの流れる古い喫茶店に、少しばかりの緊張の為早く着いてしまった僕は、暫く本を読んで、船川、鈴木両氏の到着するのを待ちました。長身でステッキをつき黒いコート、眼鏡の奥の鋭い眼光、その雰囲気はかつて映画や小説で観た70年代の革命家を志した芸術家・作家という(鈴木氏の文体から来る先入観が多分にあると思うが)第一印象でした。三人での話は、次回イベントの打ち合わせもそこそこに、文学、音楽の話から、空間移動、超常現象、念力等の話にまで及び縦横無尽、自由奔放でいて深い真理をつく様な、鈴木氏の著作とやはり(というか当たり前に)通ずる言葉の吸引力にあっと言う間に時間が過ぎていきました。

先月末には新刊の「サブ・ローザ―書物不良談義」も刊行されていて、その中では船川君が渦中に訪れたアラブの春にも言及されていたり、やはりアルトーについても書かれていたりします。僕は今のこんな仕事をしながらも、文芸や芸術に無知な事もあって、この評論集に出て来る作家やアーティストのうちおよそ半分の人達について一体どんな人でどんな作品を創作した人達なのかほとんど何も知らずに読みましたが、とにかく言葉のそれ自体が持つ推進力が凄くて、久々にワクワクするというか、早く続きを読みたい、と思う本に出会ったという気がしています。そしてその鈴木氏と船川氏の話が聞けるという事に今から待ち遠しく思っているのです。師弟の対談を超えて何やら面白い話が飛び出してくるのではないでしょうか。


月夜のアトラス -夜話 第3部- / 船川翔司 X 鈴木創士

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6月に活動の拠点を靭本町から立売堀へと引っ越し、あっと言う間に3ヶ月が過ぎました。まだまだ、自分達自身もこの新しい場所の使い方を模索している様な感じです。いくつかの展覧会と、音楽会、そしてワークショップも既にいくつか行っています。

今、私達は大きな流れの転換点にいる様に感じています。ここ数年そんな風に時代の流れを敏感に感じながら活動をしてきたつもりだったのですが、3.11以降もはや過去の概念が全く通用しなくなるぐらい、驚く程の早さで、これから自分自身が携わらなければならない創造の現場は遥か先へ押し流されようとしているのではと思います。かつて、dumb type の古橋悌二氏が自らに「アートとは有効な表現手段か」と問うていた様に、何度もこの問いを自分自身に投げかけずにはいられません。古橋氏は彼の遺書の中で「我々現代社会を生きる人間にとって冒されざるを得ない精神の病巣を治癒する手段としてアートはやはり、有効な手段となりえるのだ。人間の精神に影響を与えるものの中で最も公平な手段として、私の選択に間違いはなかったのだと信じたい。」と綴っていましたが、僕自身はまだはっきりとこの問いに、確信を持った答えを見つけれずにいます。いえ、見つけれないというよりは、3.11以降に見失っていると言った方が良いかもしれません。

これまでの、ギャラリー(貸し手)、アーティスト(借り手)、観客がはっきりと分かれていた様なギャラリーという場のイメージは、現在どんどんと薄れていっています。ギャラリー、アーティスト、観客の三者の境界がもっと混じって行って、三者で、この月夜と少年という場を作って行かなければならないのだろうと思います。今まで、月夜と少年ではレンタルでこの場所を定額でアーティストに貸し出すか、自分達で展覧会を企画してこちらからアーティストに声をかけて参加してもらうというそのどちらかで、やってきていました。もう少し、その中間ぐらいの立ち位置で場所を運営出来ないかと思っています。今までよりもっと沢山のイロイロなモノを作っている人たちと出会い、より深く一緒にこの場所の可能性を探っていける人を探しています。

【募集】
1. 展覧会を開きたい人
* 企画、レンタル、問わず条件は相談に応じます。
* 自身は制作はしないけど、展覧会を企画してみたいという人も。

2. ワークショップ、講座を開きたいという人
* 条件は相談に応じます。
* 現在、ドローイング、英会話、西洋美術史、西洋音楽史等の講座をやっています。

3. 音楽イベントを開きたいという人

とにかく、この場所で何か一緒に面白い事を出来そうな人、tsukiyo@mumble-mumble.com か 06.7493.4174までご連絡を頂ければうれしいです。


それと、もう一つ。現在月夜と少年から不定期で配信しているメールマガジンを、近いうちに刷新しようと考えていまして、2011年6月より以前から登録されている方は、一旦登録を全て解除させて頂こうと思っております。次号のメールマガジンでも、詳しく案内させて頂きますが、続けて購読をご希望の方は、大変ご迷惑をおかけ致しますが、メールマガジンの購読継続を明記の上 tsukiyo@mumble-mumble.com までご連絡をお願い致します。また、新しくなるメールマガジンでは、幅広く様々な方に執筆をお願いしたいと思っています。月夜と少年のメールマガジンに何か書いてみたいという方も是非ご連絡頂ければうれしいです。

夜をくぐる

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今回、アルバムのジャケット、歌詞カード等のデザイン制作を担当させて頂きました。森ゆにという音楽家の事や、デザインの事はもちろん、CDというメディアに関してや音楽に関して等、本当に色々な事を考える機会になりました。この機会に少しここに書き記しておこうと思います。

ここ数年、僕はCDに対しての物としての魅力を、ほとんど感じなくなっていました。実際にピーク時には月10〜20枚程買っていたCDも、2010年に1年間で買ったCDはたったの2枚でした。わざわざCDを買わなくても音源はダウンロードで買えば、すぐにiPhoneに入れて聴けて便利だし、CDラックがパンパンになる事もありません。どのアーティストのどの曲をどんな順番で聴くのか、編集も思いのまま自由自在です。

そして、じっくりと音楽を聴きたい時はレコードを聴きます。ジャケットからレコード盤を慎重に取り出し、丁寧にホコリをはらってからタンテーブルに載せる、そしてアームをセットして、静かに針を落とす。音楽と真剣に向き合うにはこれくらいのテンポでないと着いていけない様に感じます。素晴しい演奏、素晴しい音源は中古レコード屋を巡れば、新譜なんて買わなくたって幾らでも出会う事が出来ます。

インターネットでの楽曲配信の便利さと、アナログレコードの素晴しさを改めて感じたのです。2010年は僕にとって、正にCDを買う意味を失った一年でした。恐らく、これから先CDというメディアを大量に生産して、それを映画、ドラマ、CM等のタイアップで莫大な広告費を使い、大量に消費していくというビジネスモデルは無くなるだろうと思います。所謂音楽業界というカタチは衰退していくより他は無いだろうと思います。

そんな事を考えていた僕に、2011年になって今回のこの「夜をくぐる」のエンジニアを担当した、water water camel の田辺玄さんが、ジャケットのデザインをしてみないか、という話をくれたのです。日頃から玄さんには、僕がCDというメディアに対して大分否定的であるという事は話していました。それでも、いえ、だからこそと言うべきでしょうか、CDに否定的だからこそ何かしら面白いモノが生まれるのではないかと考えてくれ、そして当の森ゆにちゃんも、以前月夜と少年でライブをやった時に場所の事を気に入ってくれて、月夜と少年にデザインを頼んでくれる事になったのです。

ジャケットデザインの依頼を受けてから、僕自身にとって素晴しいと思えるジャケットとはどんなモノかという事を考えました。まず、ジャケットを眺めて、どんな音が盤から流れてくるのだろうという事を想像させて、ドキドキさせてくれるモノである事、そして、そのアルバムをずっと手元に置いておきたくさせる様な、デザイン、質感のジャケットである事、という様に考えました。森ゆにちゃんからのリクエストとしては、ピアノと森ゆにちゃん自身がしっかりと向き合っている事の伺い知れるデザイン、そして玄さんからは、シンプルだけれどきっちりとデザインされているという事が分かるモノという様なリクエストでした。

割と早い段階で、森ゆにちゃんの写真をジャケットに使うという事が決まり、カメラテストの為に大阪に寄ってもらったりもして、とにかく、沢山コミュニケーションを取り写真撮影に望みました。モノクロ、カラー、35mm、120mm、と幾つかのフィルムを試したり、そして久しぶりに自宅で少し緊張しながら現像したりしました。現像のあがったフィルムをチェックしていて、撮影時の素敵な衣装を着てピアノを弾く彼女をファインダー越しに覗いて、ドキドキした感覚が蘇って来るのが分かりました。これは、良いモノが出来るという確信を得た気がしました。そして、その写真から妻がとても根気強く、それぞれの想いを掬う様にして、ジャケットと歌詞カードに落とし込んでいきました。

そして今、完成して出来上がったジャケットと歌詞カードを眺めながらCDを聴いています。僕はレコーディングに立ち会った訳ではありませんが、地震の後、計画停電の行われる最中、田舎のホールでポツンと一人ピアノに向かい歌う姿が浮かぶ様です。確かに、何かしらの特別な空気が封じ込められている事が分かります。写真撮影の休憩の時にたまたま立ち寄った花屋さんで、たまたま青い紫陽花を見つけた事。その花は、今回の一連のデザインの中で重要な位置を占める事になりました。色々な点と点が、偶然に重なり繋がって、確かな線となってこのCDを手に取って聴く人まで、ちゃんと届いていくのだろうと、今はっきりと感じます。

この重みを持った感触は決してデータをダウンロードするだけでは味わえないのだろうと思います。ただ、それならば、これをアナログ盤で発売する事は出来なかっただろうかという疑問が新たに浮かんだりはします。けれど、僕自身が胸を張って、誰かにこれは素晴しいモノだと勧められる作品になった事をとてもうれしく思っています。濃密なコミュニケーションの上に成り立った、理想とも思える仕事に携われた事に感謝します。この作品がどこかで、誰かの生活に小さな灯りを点している事を願います。

22の組曲

3月11日以前と以降。僕はもう3月11日以前の自分には戻れないのだろうな、と感じる。一人を本を読んでいても、誰かと話をしていても、どこかの片隅で"放射能"という三文字が常に微かな存在感をもって、僕自身をも薄い膜で覆ってしまいそうになる。未来への漠然とした不安感と、"今こそ何かをしなければ"という漠然とした決意。

恐らく、地震の事だって、原発の事だって、今こそ声を上げるべき時だし、行動するべき時なのだ。今何も出来ないという事は、これからも何も出来ないって事のような気がする。分かっているのに、それでも、僕は何も踏み出せずにいる。

恐らく僕は、自分勝手だ。こんな時にでさえ、ただただ、僕は大切な友の奏でる素敵な音楽を聴き、大切な友の描く素敵な絵に触れたいと思っている。作品を通して彼らの見ている世界を少しでも感じたいと、そんな事を願っている。そんな日々がいつまでも続く事を、信じたいと思っている。

無責任かもしれないけど、こんな時だからこそ、少しでも多くの人に、「月夜と少年」の新しい一歩を観に来て欲しいと思う。今はまだ、僕に出来る事なんて、何もない。それでも良い。素敵な音楽と、素敵なアートが今も変わらずに在る。



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2008年の3月から、大阪市の靭(ウツボ)本町で営業してきたgallery 月夜と少年ですが、6月から新しい場所で、そして名前も今までの「gallery 月夜と少年」から「月夜と少年」として、次のステップへと移る新たな活動を始める事となりました。その新しい場所のお披露目を兼ねまして、これまでにお世話になってきたアーティストの方々に参加してもらい、音楽会と展覧会を企画致しました。この機会に「gallery 月夜と少年」を知っている人も知らない人も、新しいスタートを切る「月夜と少年」にお越し頂ければ幸いです。

【22の組曲】

■ 音楽会 第一夜
2011.06.04 (sat)
open / start 18:00 / 19:00
charge 3,000 yen (1ドリンク込み)
*2日通しは5,000yen (両日共1ドリンク込み)

guest
- water water camel
- 高橋水木
- 宗田佑介

■ 音楽会 第二夜
2011.06.05 (sun)
open / start 18:00 / 19:00
charge 3,000 yen (1ドリンク込み)
*2日通しは5,000yen (両日共1ドリンク込み)

guest
- circe
- 西森千明
- maison de sistelia


■ 展覧会 第一部
2011.06.06 (mon) - 2011.06.14 (tue) *wed close

天岸藍子, 岩瀬ゆか, 上田三佳, 遠藤誠明, 大久保淳子, 川瀬大樹, 榊和也, ツダモトシ

■ 展覧会 第二部
2011.06.17 (fri) - 2011.06.25 (sat) *wed close

東好美, 安間仁美, 今西徹, 小田文子, サンマルハチ, 西絢香, 野田香奈子, もうひとり

【問い合わせ・予約】06.6441.6190 or tsukiyo@mumble-mumble.com

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