長坂有希

ある友人を通して、一人のアーティストと知り合った。長坂有希。彼女は高校を卒業してアメリカへ渡り、その後もドイツ、イギリスと長く海外を拠点に活動してきたアーティストだ。2013年に海外での活動に一区切りをつけ、大阪にある上町荘というシェアオフィスの一室をアトリエに、日本での活動を開始している。彼女が作る作品には、そのプロジェクト毎に様々な手法が用いられていて(現在は陶芸を用いた作品とパフォーマンス作品の準備が同時に進められている)、ここで説明するのは難しいのだけど、どれも人の奥深くに在る、記憶と物語を柔らかに刺激する独特の魅力がある。
今回アトリエを訪れ、幼少期の話、海外での話、これからの制作の話など2時間を越えるロング・インタビューを行った。ゆっくりと彼女の話を読んでもらえると嬉しい。

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幼い頃の記憶について。新しい自分を獲得した事。

3歳になる少し前に引越しをして、それを境にしっかりとした記憶があります。両親が共働きで、長い時間保育園に預けられていました。その頃は暗い子でした。自分は正しくない場所に居ると思っていて、ずっと居心地が悪かったんです。そんな違和感がありました。そして極度の人見知りでした。だから、保育園でも、皆で何かをやっていた事よりも、一人で遊んでいた事を覚えています。土で完璧な球体を作るのに熱中したりとか、、、。水をつけて手で丁寧にやすっていくと、固くなっててかりが出てくるんですよ。何日もかけてそんな事をしていました。あと、折り紙で何層もあるお城を作ったりしたのも覚えています。特に作る事が好きだと感じていたわけではないと思いますが、良く覚えています。
小学校に入ってすぐに半年ぐらい登校拒否になりました。お母さんから離れたくないとか、団体行動に馴染めないとか、色々理由はあったと思いますが、根本的にはずっと感じていた違和感が原因だったと思います。そんな中ある時急に、こんなに弱いままでは、この先社会で生きて行けないというような事を自覚したんです。それで、これまでの自分を殺して、新しい自分になる為の儀式を自分の中でやったんです。それまで、開きすぎて、ちょっとした事でもダメージを受けていた、外側と内側の境界を閉じたんです。セルフプロデュースみたいな事です。明るい自分を演じるようになって、学校も行きだしたし、学級代表をやるようにもなりました。不思議なもので、始めは明るい自分を演じていたのが、それを続けていると本当に明るい性格になっていきました。そう言えば、今の私の人生にも影響を与えているかもしれない出会いもありました。小学校に、ある時女の子が転校してきて、建築家のお父さんが設計したレンガ造りの素敵な家に住んでいました。空間を作って、そこで誰かが個人的な時間を過ごす、というのに憧れました。卒業文集には建築家になりたいと書いたと思います。

内側に抱えた違和感、ここではないどこかへ。

中学校でも、友達は多かったし、傍目からは凄く活発な子という感じだったと思います。でも、自分の内側では、違和感は消えていませんでした。通っていた塾の英語の先生が、海外の話を沢山してくれて、それが印象に残っています。その事で、特に海外に出たいと思ったわけではないけれど、自分の置かれていた環境に違和感を感じていたし、今ここにはない何かを見つけたいと思っていました。今なら自分の内側に違和感があったとしても、それに応じながら外の世界を構築する事が出来るし、それをある意味利点として捉える事が出来ます。でも、その頃はまだ置かれた状況に対処する事が出来ず、違和感の只中に居なければなりませんでした。
高校に入ってからも、ここではないどこか、何か違うものというのをずっと探していたんだと思います。学校の定期テストも受けずによく旅行に行っていました。勉強する事には意義が見出せず、ダラダラしていました。高校2年で、そろそろ進路を決めなければいけなくなった時に、その頃交換留学に行った友達の話を聞いて、これは良いかもと思いました。そして、高校3年の夏から11ヶ月間、アメリカテキサス州のサンアントニオにある高校へ交換留学に行きました。すごく大変だったけど、楽しかったです。

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海外に出て新しい人格を獲得していった。

誰も自分の事を知らない、言葉も操れない異国で、自分の事を知ってもらって、人間関係を作っていく。言葉だけでも、日々自分が変わっていっているのが、手に取るように分かって、それがとてもスリリングで楽しかったです。今、こうやって話をしていて気付いたけど、海外に出て、新しい自分の人格が出来たんだと思います。言葉が不自由だから、言葉をあまり使わなくても良い授業を沢山とっていて、それで美術の授業もとっていました。ずっと絵を描けないと思っていたけど、授業で模写をやってみたら、びっくりするくらい上手に描けたんです。とにかく、出来上がりとか、全体像とかを考えずに、目の前の物をよく見てそれを集中してなぞりなさいと教わりました。そうやっていると、最後にはちゃんと出来上がっています。言葉も自由にしゃべれなくて、思っている事を上手に伝えられない中で、絵を描くと他の人より上手に描けて、それで褒められるというのが凄く嬉しかったです。言葉を使わない表現に惹かれ、そして、出来る事を熱中してやっていました。

短期留学を終えて、一度日本に戻ったけれど、またすぐにアメリカへと思っていました。この時はまだ、ただ海外で暮らしていたいと、そんな風に思っていました。アメリカで建築を学ぼうと思っていたのですが、ちょっとしたアクシデントで、建築の学科へは進めなくなってしまいました。それで、始めの方の授業が似ているという事でアートの学科に進みました。アートで大学を卒業して、建築をどうしてもやりたければ、大学院に進めば良いと考えていました。あの時、大学ですんなりと建築の方へ進む事が出来ていたら、今も建築をやっていただろうと思います。そうやって、アクシデントによって大学でアートの方へ進む事になって、その中で初めてインスタレーションというものを知りました。どんな空間を作るのか、そこで人がどう動くのか、そういう事を考えていると、これが自分のやりたい事だったんだと、気付く事が出来ました。ようやく、アートをやって行きたいと思うようになりました。


(Project T, T for Taut. インスタレーションの様子。)


(If on a winter’s night a traveler / Chapter 1 Into a magnifying sphere through a bumpy lava tunnel の中でのコラージュ。)[/column][/grid]

ドイツで日本人であることを取り戻し、アートを深く考えた。

大学を卒業した後に、日本で「現代美術センター:CCA北九州」のレジデンシー・プログラムに参加しました。でも、やっぱり日本での居心地が悪くて、そのプログラムで出会ったヨーロッパのアーティスト達の誘いもあって、ベルリンに行く事にしました。
ドイツに行って初めて、私って日本人なんだなと思いました。長く住んでドイツに慣れても、あなたのorigin (起源)は何?という事を凄く聞かれました。自分が日本人である事を意識せざるを得ないし、そうやって自分が日本人である事を取り戻したんだと思います。アメリカに行った時は若かったし、日本人とアメリカ人の違いみたいな事を意識する前に、自分がカメレオンみたいにアメリカに同化してしまっていました。英語を喋れて、アメリカの文化を知っていて、ノリが分かれば出身がどこであろうと、アメリカ人だよね。と中に入れてもらう事が出来ました。だから日本からアメリカに行った時よりも、アメリカからドイツに行った時の方がギャップを大きく感じました。
幸運な事に、知り合いのアーティストに紹介してもらった建築事務所で働く事になって、ワーキングビザがおりました。始めはとにかくベルリンに住んでみようという感じでした。新しい国、新しい言葉、新しい環境、新しい仕事、新しい事ばかりでプレッシャーは大きかったです。あと、アメリカで住んでいたテキサスは毎日晴れていて皆陽気だったけど、ベルリンの冬が暗くて寒いのが精神的にかなりきつかったです。働いていた建築事務所では、自分があまり役に立てていないという意識があって、そしてやっぱり、私はベルリンでアートをやりたいと思っていたし、自分に出来る事をと、展覧会は定期的にやっていました。自分の精神を、人の仕事の為にどれだけ切り売りするのか、自分のアートをする事とのバランスが難しかったです。
その後、大学院に通うために、フランクフルトに移りました。アートの道にふっと入ってしまったので、その時に初めてアートの事を深く考えました。同世代のアーティストやキュレーターと出会う機会に恵まれたのが良かったです。その中で自分も作品を作ったり見せたりして、その場所がどういう所なのかというのを測っていたように思います。

日本に戻り見えた自分の内側の変化

久しぶりに日本に戻って、「半分私外人だからね。そうでしょ、私ずれてるでしょ。」という風に言えるし、相手もそれを分かってくれる。年齢的にも、職業的にも、それで構わない。今は自分でもびっくりするぐらいに楽に感じています。
今までは移動する事が多くて、その移動の中で考える事が多かった。国が変わると、気候も景色も変わるし、変化が激しくて、自分が何を考えているか分からなくなる事があります。でも、今はこうしてアトリエを持つ事でここに毎日通っていて、周囲の状況を一定に保つ事が出来ます。そうすると、自分の中の変化がよく分かります。それがとてもエキサイティングです。
海外に居た時は、コミュニティに参加したいというよりも、作家個人としてのキャリアを意識していました。今は、自分以外の人達と、物とか人とかもっと長いスパンで何かを一緒に作っていきたいと思っています。この場所に居る事で誰かと知り合って、時間を共有する中で何かが生まれてくれば良いなと思います。この上町荘にも色んな人達が居ますし、この地域でも良いのですが、私が居る事で何かの役に立てたら、、、、というよりも、何か少し大きな輪の中に入っていければなと思います。

100年後の未来に残したいモノについて。

学者とか専門家とかだけではなく、多くの人達のごく普通の生活の中に、本を読む行為とか時間が残っていればいいなと思います。あと、物事をグレーのまま、曖昧なまま残しておける感覚。私は曖昧さを残す事が苦手でした。分からない事や、賛成でも反対でもないという事を、認め合える、深く相手を受け入れる事が出来る豊かさ。今は分からなくても、そのうち分かる時がくるよと思える、心と時間の余裕が100年後にもあれば良いなと思います。

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